●演奏会チラシ作成、コンサートチラシ作成、音楽チラシ作成、パンフレット、リーフレットなど印刷広告物はASOBEにご相談ください。

演奏会やコンサートのチラシを制作でも度々お世話になっている 歴代作曲家のパブリックドメイン(知的財産権が消滅した状態) になっている画像を集めてみました。

▶ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
▶フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
▶ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
▶ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
▶フランツ・ペーター・シューベルト
▶フレデリック・ショパン
▶ロベルト・アレクサンダー・シューマン
▶フランツ・リスト
▶リヒャルト・ワーグナー
▶ヨハネス・ブラームス

掲載は年代順/文はウィキペディアより抜粋
クリックで画像拡大します

演奏家
18世紀に活動したドイツの作曲家・器楽演奏家である。特に鍵盤楽器の演奏においては高名で、当時から即興演奏の大家として知られていた。西洋音楽史上における存在の大きさから、「音楽の父」と称されることもある。ベートーヴェン、ブラームスとともに“ドイツ三大B”と呼ばれる。 バッハ一族は音楽家の家系で、その他のバッハとの混乱を避けるためにJ.S.バッハと略記することがある。また、バッハ家でもっとも偉大であるという意味で大バッハという呼び名も古くから使われる。この時代、ピアノはまだ普及するにいたっておらず、バッハはオルガンの名手として著名で、その構造にも精通していた。

▲上へ


フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
Franz Joseph Haydn
ドイツ1732-1809
ハイドン

古典派を代表するオーストリアの作曲家。 たくさんの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。 ナポレオンの進駐時にもこの曲をピアノで演奏していたとされる。 ナポレオンのウィーン侵攻の中で死去。ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して混乱している使用人たちを何とか落ち着かせようとするものであったという。

▲上へ


オーストリアの作曲家、演奏家。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。 「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されている。モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた。子供の頃から各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった。従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父親による規制が無くなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれに当たる。

▲上へ


クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。弟子のチェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯を好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことも知られている。当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも尊敬されていたという。 40代には、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。しかし聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロ ランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

▲上へ


ポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてピアニストとして、また作曲家としても有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。 生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのが得意で学校ではクラスの人気者だったという。 後半生は大部分をフランスで過ごした。しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。

▲上へ


ポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてピアニストとして、また作曲家としても有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。 生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのが得意で学校ではクラスの人気者だったという。 後半生は大部分をフランスで過ごした。しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。

▲上へ


ロマン派音楽を代表する一人。名ピアニスト、クララ・シューマン(Clara Josephine Schumann)は妻である。 シューマンの旋律はそれまでのどの作曲家の作品とも違う、鋭い表現力をもったものであった。和声的にも、法則を最大限に活用して、斬新な響きを作り出した。また、リズムにも特徴があり、付点音符やシンコペーションを多用して、力強さや浮遊感を表現した。 シューマンはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽から大きな影響を受けた。ベートーヴェンの交響曲のような作品を書くことが少年シューマンの夢であった。また、フランツ・シューベルトの詩的情緒にも魅了された。ヨハン・セバスティアン・バッハの対位法は彼にとってロマンティックで神秘的なものを感じさせた。 シューマンは子煩悩で、子供、もしくは初心者のための作品が比較的多いことも特徴である。これは他の同時代作曲家に例を見ないもので、後世にいたるまで価値を失わない、音楽教育の分野での大きな貢献であるといわれている。

▲上へ


ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。 ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をし「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行なった人物と言われている。どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。 1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。

▲上へ


歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。それと同時に劇作にも関心を持ち、のちに彼独自の芸術を生み出す原動力となる。ロマン派歌劇の頂点として「歌劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。指揮者としても高名で、「指揮について」などの著作もあり、指揮に対する独自の理論を打ち立て、多くの指揮者を育成した。同じく独自の音楽理論を掲げ、多くの弟子を養成したブラームスとは激しく対立し、近代以降の指揮理論の二大源流となった。 過剰なほどの自信家で、自分は音楽史上まれに見る天才で、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだ、と公言して憚らなかった。このような態度は多くの信奉者を出すと同時に敵や反対者も出す結果となっている。

▲上へ


ヨハネス・ブラームス
Johannes Brahms
ドイツ1833-1897
ブラームスブラームス
映画/さよならをもう一度(1961)
19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者である。バッハ、ベートーヴェンと共に、ドイツ音楽における「三大B」とも称される。 作風はおおむねロマン派音楽の範疇に属するが、古典主義的な形式美を尊重する傾向も強い。 大部分のロマン派の作曲家と同様に、ブラームスもベートーヴェンを崇拝していた。また古典派の作曲家モーツァルトとハイドンを敬愛している。 一部には、ブラームスをしてベートーヴェンの後継者ととらえる人もおり、指揮者のハンス・フォン・ビューローは彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評した。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中では最も古典派に近いと考えられており、「新古典派」という呼称で呼ばれることもある。 1860年代以降、作品が人気を博して財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、単純な3部屋のアパートに家政婦と住んでいる。また、アントニン・ドヴォルザークの才能を見出し、支援したのもブラームスである。

▲上へ